みわカイロプラクティック整体院の院長紹介です。
どのような人なのかをご覧くださいませ。
三輪 正光Masamitsu Miwa

- 生年月日 昭和48年2月21日
- 出身地 富田林市
- 出身校 日本カイロプラクティックドクター専門学院
- 趣味 旅行・温泉・ご朱印集め
- 性格 温厚(まず怒らないです)・のんびり屋(追い詰められないとやらないタイプ)
- 特技 地図さえあればどこへでも行けます(でも梅田周辺は苦手です)
院長の経歴 パート1幼少期~就職まで
僕は昭和48年に富田林市で生まれ育ちました。石川のほとりで、当時はまだ自然がたくさん残っていたところです。 自宅から小学校までは3kmの距離がありましたのでずいぶん時間をかけて登校していましたが、 帰り道では川べりで寄り道して遊んだりするような自然児で毎日楽しかったことを覚えています。
小学5年生になる春休みに、実家のある河内長野市へ引っ越してきました。
最初はなかなか新しい環境に馴染めなかったですが、当時の担任の先生に誘われて少年サッカーチームに入りました。
その時先生からかけられた言葉は、「自分、ええ身体しとるなぁ。サッカーやらへんか?」でした。
別にがっちりしていたとかいうわけでなく、ただ単に太っていたというだけなのですが(苦笑)。
サッカーは最初はあまり楽しくなかったのですが、中学に入ったころからかなり打ち込むようになりました。
きっかけは、当時「キャプテン翼」が流行っていたんです。単純ですねぇ。
サッカーを頑張りだして試合にも出させてもらえるようになったのですが、中学3年の夏休み前に膝を痛めてしまい、 それを庇っていたせいか腰まで痛めてしまうことになりました。 その時は近所の整骨院に通ったのですが、そこではじめてカイロプラクティックによる施術を受けました。 今でこそ何をやられたのかは理解できますが、僕は腰と膝が痛いのに首にだけ施術をされることに 「何でやねん」って思ったことを覚えています。で、帰るときには状態が良くなってるものですからますます 「何でやねん」って思っていました(笑)。
高校は狭山高校に進学しました。 正直、高校時代の事は自分でもあまり覚えていないですし、周りから見ても影の薄い人だったと思います。 時間ばかりが淡々と過ぎていく感じで、もったいない過ごしかただったなと思います。 その先の進学についても、大学に行こうという気があまり起こらずに、 何となく就職に有利そうだからということで大阪電子計算機専門学校というところに進学しました。
専門学校ではプログラミングとともに、情報処理技術者試験という国家資格を目指して勉強していました。 プログラムを組むのって意外と楽しいものだなと気づかされました。 おかげでコンピュータを触ることに抵抗があまりないので、このホームページも自分で作っています (ページの枠組みとかは無料サンプルを拝借してますが、自分なりにアレンジしています)。 国家試験も無事合格し、学年の中ではトップの優秀賞をいただいて卒業しました。 就職は商社系のコンピュータ会社に無事入ることができました (先生に試験を受けてみたらと言われた中に、種子島宇宙センターとかあったのですが、 帰ってこれない気がして辞退しました(笑))。
院長の経歴 パート2会社退職~現在まで
就職後は毎日プログラミングの仕事をしていたのですが、だんだんこれが本当に自分のやりたかったことか? という想いが頭の中に浮かんでくるようになりました。 コンピュータの学校に行くときに深く考えていなかったツケが回ってきた感じでした。 仕事自体にストレスを感じ始めて、特にコンピュータの2000年問題を対応しているときにストレスがピークに達して、 対応の終わった2000年1月で会社を退職しました。
そこから自分は何をしたいのかを考えました。
これまでは1日中コンピュータと関わっているだけだったので、今度は人と関わっていく仕事をしてみたい。
人に喜んでもらえる仕事って何があるだろう?などと考えているうちに、
雑誌でカイロプラクティックの特集記事を見かけました。
この時に中学時代のカイロプラクティックを受けた記憶が蘇るとともに、これだ!
これなら人の役に立てて喜んでもらえるに違いないと思いました。
すぐにカイロプラクティックを学ぶための学校の資料をかき集め、授業見学に行かせてもらい、
一番熱のこもった学校に思えた日本カイロプラクティックドクター専門学院に入学しました。
学校は思った通り、熱い人が大勢集まったところでした。勉強が終わった後も、放課後に自主的に練習を繰り返します。 僕は夏休みや冬休みなども毎日学校に行って練習をしていたのですが、同じように毎日来てる人は結構いました。 そういう人たちと学校が終わった後に居酒屋でカイロプラクティックのことや、 将来の展望などを夜遅くまで語り合ったりとかもしました。 文字通り朝から晩までカイロプラクティック漬けの日々でした。 ここまで熱心に勉強したことは、この時点まででは一度もありませんでした。 今振り返っても、とても充実していたと思います。

卒業後、臨床経験を積むために平野鍼灸整骨院に就職しました。
最初のうちは、人の体に触れることが正直怖かったです。
練習はたくさんしてきましたが、当然練習とは違うわけで手が震えないように、
声が震えないようにするので精一杯でした。
それでも少しずつ経験を重ねるごとに施術成績も良くなっていき、「良くなったよ」「ありがとう」
「助かりました」などと声をかけていただくことも多くなっていきました。
そうして入社から3年が過ぎたころ、院長先生より僕に副院長をやってもらうとの声がかかりました。
僕は柔道整復師でも鍼灸師でもありませんから、すごく異例の事です。
認められてうれしい思いと、責任ある立場のプレッシャーを感じながら、充実した毎日を過ごすことが出来ました。

この業界に入った時からずっと思い続けていたのは、いつか自分の店を持って自分の力でやっていきたいということでした。
それが叶ったのが平成19年5月でした。大阪狭山市西山台に「みわカイロプラクティック」
という自分の店を出すことが出来ました。
全ての事を自分でやらないといけないということで、すごく戸惑いもありましたし、
整骨院時代とは施術スタイルも変わりますのでいろいろと試行錯誤もありました。
それでも何とか軌道に乗り始め、自分の城で自分のやり方で喜んでもらえる人が多くなっていくにつれて、
毎日がとても楽しく感じています。
平成22年には娘が生まれました。
そして平成28年にとうとう自宅兼施術院という形で、この大阪狭山市半田にて「みわカイロプラクティック整体院」
としてリニューアルオープンすることができました。
ここまでたどり着けたのも、今まで当院に関わっていただいた大勢のかたのおかげだと思っています。
この思いを忘れずに、これからもより多くの方々のお役にたって喜んでいただけるように精進してまいりたいと思います。
施術に対する想い
まずは何よりも安全で安心して施術を受けていただくことが第一です。
力任せの技だったり、強い痛みが伴うような技は使いません。
あなたに対して僕が提供したいこと。
毎日が健やかに、穏やかに過ごしていただくこと。
笑顔が自然とあふれて、不安なく過ごしていただくこと。
頑張りすぎて疲れたとしても、自身の回復力で良い状態に戻ること。
そんなあなたになれるように、全力で支えていけたらなという思いで施術を行っています。
あなたが笑顔で過ごせたら、家族や周りの人もみんな幸せな気分になる。
そのお手伝いができれば、僕はこれ以上にうれしいことはありません。
あなたにお伝えしたいこと
当院に通ってみようかどうかを迷っておられますか?
もしあなたが「1回で痛みや不調を消してほしい」「痛いのさえなくなれば良い」とお考えであれば、
当院よりもペインクリニックなどに行かれたほうが良いかと思います。
もしあなたが「痛みが出たとしても自分の回復力で良くなっていくような体になりたい」
「痛みの起こりにくいような体を手に入れたい」といった根本的な改善を目指していきたいとお考えであれば、
当院はあなたのお役にたてると思います。
もちろん、現在抱えておられるお悩みを改善することが大事ですが、
当院ではその先も良い状態をキープし続けるために、あなたを全力で支えていきたいと考えています。
あなたの体はこれからも何年、何十年と元気にはたらいてもらわなければいけません。
そのために僕にできることの全てをあなたに注ぐことをお約束します。